粗大ゴミの常識
キリスト教・ユダヤ教とイスラムとの歴史的宿縁や、イスラム世界の孤立感、いらだちなどさまざまな個別的背景がある。
冷戦終結後、軍事的にアメリカに対抗できる国はどこにもない。
〝ひとり勝ち″の世界である。
情報通信技術の発達を武器にしながら、そのアメリカが推進するグローバル化は、アングロ・サクソン流の思考が投影され、弱肉強食型の市場原理が前面に出た。
貧富の格差もまた世界化せざるをえない。
加えて、政治面でもアメリカには露骨に「単独行動主義」を打ち出す政権が登場した。
テロリズムを生む条件は整っていたのだ。
相手が圧倒的に優位で、それに対抗する手段が他に見当たらないという時に起きるのがテロリズムだからだ。
テロを憎み、恐れ、またその感情に唱和しないと同類と見なされるという恐怖も手伝って、このことへの省察は無意識にか、意識的にか、おろそかにされた。
これはヒロシマ、ナガサキの悲劇に対する世界の大方の受け止め方と、やや似ていると私は思う。
なおひとり抵抗を続ける「世界の敵」(枢軸国)に止めの一撃を加えたことで、この核兵器使用は広く世界で支持、評価、または祝福された。
科学技術の進歩が人類に良きものをもたらすという、二〇世紀を支配した人間の能力への無邪気な信仰が、一九四五年八月六日と九日に、決定的に否定されたのだという認識は生まれなかった。
科学技術の最先端の能力が広島、長崎の市民という「人類」に「良きもの」などもたらさなかったという事実は見逃された。
後に公害や環境破壊を見るまで、それに気付くのが遅れた。
テロリズムは憎むべき行為であり、テロリストは抹殺されねばならない。
それはその通りである。
だが、この「単一の説」が絶対的真理として支配し、それ以外の言説を封殺したらどうなるか。
福澤諭吉が『文明論之概略』で「多事争論」を説いたのは、まさにこのような状況への憂いだった。
「単一の説」がたとえ「純精善良」うまり絶対的に正しいとしても、その説が人と社会を支配してしまうと失われるものがある、それは「自由の気風」だと福澤は書いた。
9・11の最大の犠牲者は、反グローバリズムだとも言われた。
あまりに暴力的な異議申し立てが起きたために、グローバリズムへの異議という点では同質の部分をふくんでいる運動がやりにくくなったというのである。
実際にもテロリストとは一線を画しているのだという〝アリバイ証明″に彼らは多大なエネルギーを費やさねばならなかった。
テロリズムが「絶対悪」だとしても、だからと言ってグローバリズムを推し進めることが「絶対的正義」だとは言えないはずなのに。
あれだけあけすけに「多事争論」の風土を持っていた当のアメリカでも、9・11以降、政府の方針に異を唱えることは悍られることとなり、それを口にする場合も声をひそめて語るようになった。
その間に、「愛国法」など強権的な法律が次々と作られ、監視社会の度を強めていった。
「自由の気風」は失われていった。
それだけではない。
激突する原理主義自分たちの信ずる「単一の説」が絶対的に正しいと思う人たちがいる。
「原理主義者」も、その一種であろう。
9・11の自爆テロを支えたのはイスラム原理主義であり、そのためには自分の命を賭けることも辞さなかった者の犯行だった。
攻撃を受けたアメリカ側がアルカイーダの潜むアフガニスタンへの侵攻を始めるに当たって、当初につけた作戦名は「無限の正義」であった。
ブッシュ大統領は「十字軍」という言葉も口にした。
キリスト教徒がイスラム世界に何度も遠征軍を送って戦った故事のことだ。
いずれも、イスラム側の反発を招き、変更と取り消しが行なわれたが、「初動」の振る舞いにはかえって事の本質が顕れるものである。
「無限の正義」になぜ抗議が起きたかと言えば、イスラムではそれはアラーの神を指すからだという。
「アラーの他に神なし」を信ずる人たちがイスラム教徒である。
これは原理主義者であるかどうかに関係ない。
同様に、キリスト教徒が「神の子」キリストを通じて信ずる神も、ユダヤ教徒の信ずるエホバも、「唯一神」である。
「我の他に神なし」の、その「我」がちがうだけである。
長い歴史的経験と同じ宗教内部ですら起き続けた葛藤を経て、この抜きさしならぬ対立に折り合いをつける工夫と節制は施されてはきたのだが、なかで教義の原理・原則に立ち返るべきだと強く主張する人たちが原理主義者ということである。
一日の日課を聖書研究で始めるホワイトハウスの主を筆頭に、アメリカの政権側にも原理主義の色が濃く、そのプッシュ再選を可能にしたのも同様の宗教勢力であった。
イスラムとキリスト教の最も原理主義的部分が激突しているというのが9・H以後の世界なのである。
そして、この対立の直接的な係争点はパレスチナ=イスラエルの扱いであり、そこにもユダヤ教の原理主義が厳然と存在して大きな力を持っている。
これはオセロゲームに似ている。
自分の側には絶対、無限の正義があると両方が信じていて「自」だと思っているのだが、それを裏返しすると「黒」になってしまう。
つまり相手の側は「黒」であり、自分は「自」だという立場はきれいに逆転し合うのだ。
欧米が歴史的にイスラム・アラブ世界に対してやって来たこと、アルカイーダやサダム・フセインがもともとアメリカが対ソ連、対イラン用に培養した〝鬼っ子″だったことを考えれば、自分の側に無限の正義があるなどとは到底言えないはずだ。
いくらアメリカ帝国主義が憎く、イスラムの神聖を犯したと言っても、それへの反撃と報復で何の罪もない市民をあれだけ殺してよい正義はないはずだ。
と言ったところで、このゲームでは「黒」と「自」、悪と正義しかないのである。
9・11が起きて、あらためてハンチントン流の「文明の衝突」が論議の風上に上った。
だが、私に言わせれば、これは異なる文明の衝突というよりは、同じ一神教世界での〝内輪揉め″でしかない。
異なる文明ということになれば、むしろ私たちの住むアジアの多神教的世界がそれに当たるかもしれない。
9・11と全く関係はないが、同じころ映画興行の世界で二つのことが同時進行していた。
世界市場では「ハリー・ポッター」(第一作)が席捲し、日本では「千と千尋の神隠し」が国内興行成績の最高記録を更新しようとしていたのである。
ハリー・ポッターはよき魔術師の子として悪と闘い、殺された両親の仇を討つことが宿命づけられている。
正義と悪が明確に示されている一神教的世界である。
この世界の住人のひとりであるハリウッドのバイヤーが「千と千尋……」を買付けにやってきたが、作品を観て、わけがわからなくなったという。
神たちが骨休めとドンチャン騒ぎをする料亭兼旅館のような場所に迷い込んだ女の子(千尋)の前に次々と意地悪な人物が現れる。
さあ、これから対決になると思ったら、相手は最初の印象ほどには悪い人物ではなくなってしまう……。
それに神たちも、頼りないのやら、おかしげなのやら、一向にいかめしくない。
何しろこの国には八百万もの神がいるのだから、いろいろな神がいて当然である。
因みに、男たちにとって最も恐ろしい神は、すぐ近くにいて、それは「山の神」と呼ばれている―という話は、それがだれのことかを三〇代以下の世代はほぼ知らず、今では通じなくなった。
「おかみさん」というのは知っているのだが。
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